「主」は何を指しているか

 イエスの時代には、神の発音はすでに失われていました。古代ヘブライ語は、子音しか含まないので、母音の発音は、一度失われてしまえば、復元できません。

 イエスや弟子たちが故意的に神の発音を隠したわけではなく、1世紀には、ユダヤ人の間で神の発音は失われていたのでした。神の名を呼ぶことは罪とみなされました。

 それゆえ当時の人々は、ヤハウェで表される神のことを、ただ「神」と呼んでいました。律法書や預言書を朗読するときは、ヤハウェの部分を、アドナイと呼んでいたようでした。これは主を意味します。

 聖書朗読をするときに、アドナイがでてくれば、それはほとんどの部分では、ヤハウェのことでした。

 イエスや弟子たちは、ヤハウェのことを「神」または「父」と呼びます。またイエスのことは「主」と呼んでいました。イエスは、聖書を朗読するときは、当時の習慣に従って、ヤハウェのことを主といいますが、自分で語るときは、常に、ヤハウェを「神」または「父」と呼びます。

 イエスは、頭の中では、完全に、ヤハウェと自分(主)を常に区別をしています。僕は、イエスが生きていた当時は、ヤハウェを表す主と、イエスを表す主は、混同されてはいなかったと想像しています。

わたしのに対するエホバのお告げはこうです。
「わたしがあなたの敵をあなたの足台として置くまでは,
わたしの右に座していよ」。
(詩篇 110:1)

 イエスが弟子たちに自分のことを主と言わせているのは、詩篇のこの聖句の中で主となっているほうの主であって、エホバのほうではありません。

 つまり、僕の仮説は、当時、ヤハウェを意味する主と、イエスを意味する主の間の区別ができていたということです。弟子たちも区別ができていたが、後世に至るにつれて、混同が生じたものではないかということです。

 ヤハウェという呼び方はすでに使われてはいなかったが、何らかの形で当時の人々は区別できていたんじゃないだろうかという仮説です。

 もしそうであるならば、区別を復元するという試みは、案外無意味なものではない気が僕はしています。その点でいえば、新世界訳聖書は読みやすいです。