イエスはさまざまな人々を受け入れた
イエス・キリストの言葉の中には、考えさせられる言葉が多いです。どうして、イエスのひとことは、こんなにも多くのことを見抜いてくれるのかといつも驚いています。それで僕は、イエスを、神の子と信じるようになりました。
イエスは、さまざまな人を受け入れます。文句や、マナー違反といったことは、まったくいいません。おかしな方法、おかしな振る舞い、当時のマナー違反の行為であっても、イエスに近づく人を、そのことに関わらず受け入れます。
びっくりするような行為であってもそれを責めるよりははるかに、イエスに信仰を働かせることのほうが、ずっと大事なことだからだと思います。
たとえば、屋根を壊してベッドに病人をくくりつけて、イエスのもとにつれてきた人がいました。常識ではどう感じるでしょうか。「なんてやつだ」と思うと思います。けれども、イエスは、信仰を誉めました。
子供がイエスに近づいてきました。当時は、子供が宗教指導者に直接近づくのはマナー違反だったようです。それで、周囲の大人たちが止めようとしましたが、イエスは、子供を近づかせて「子供のようにならなければ、神の王国を受け入れることができません」と、大人たちを諭しました。
また、高価な香油をイエスの頭にかけた女性については、周囲の人が、貧しい人のために何かができたはずだと怒っても、彼女ができたことを誉めました。
イエスの足を、涙と髪の毛で洗った女性であっても、彼女を変人扱いせずに、イエスは受け入れたのです。
イエスは、いつも何を見ていたのでしょうか。それは、人々の心です。外面の装いではなくって、イエスは、いつでも人々の心を見ていたのです。非難されるべき外面ではなくって、誠実な心のほうをいつでも見ていたのです。
父が心を見る方であることを、イエスはよく知っていました。
[神の見るところは]人の見るところと異なるからだ。人は目に見えるものを見るが,エホバは心がどうかを見るからだ」。
(サムエル第一 17:6)
イエスは、人の目の見えるところによらず、いつでも心を見ていました。イエスが、父の思いを抱き、ずっと父と共におられたということが、わかります。