互いに愛し合うことのほかは,だれにも何も負ってはなりません。
聖書には、愛しあうことについて書かれています。でも、それだと、普通の人の普通の価値感の愛と何も変わらないんじゃないかと思うんです。聖書のインパクトは、愛し合うことにあることなのではなくって「愛だけ」というところにあると思っています。
世の中は愛について歌いながらも、「なんだかんだ言っても、愛だけじゃどうしようもないよね」といいます。
相手に対して、きれいな服を着ることを求め、きれいに装うことを求め、社会的地位を求め、稼いでいることを求め、特権を求め、自分を楽しませてくれることを求め、自分の家の宗教に従うように求め、相手を自分の自由になる持ち物のように扱ってしまいます。
その結果、愛が示すものよりはるかに多くの重荷を互いが負いあうことになってしまっています。この重荷に対して、人々は心の深い部分で、相当の圧迫を受けています。これらは、大きなストレスとなっているのです。
イエス・キリストは「わたしのくびきは軽く、さわやかです。」といいました。パウロも、イエスの思いを知っていたのでしょう。愛について、このように語っています。
あなた方は,互いに愛し合うことのほかは,だれにも何も負ってはなりません。
(ローマ 13:8)
わたしたちは、人にたくさんのことを負わせようとはしていませんか。自分の価値観は正しいのだから、あなたもそれを負うべきだと。自分の常識は正しいのだから、あなたもそれを負うべきだと。常識に属している自分の価値観は正しいのだから、あなたの価値感はゆがんでいる。あなたは汚れている。そのように、いっていませんか。
そのようにして、人は、自分自身の伝統のために、神のおきてを踏み越えてしまっています。神の民が負い合うものは、愛で十分ではないでしょうか。それ以上のものが、必要なのでしょうか。