命の木とイエス・キリスト、善悪の木と愛のおきて
命の木とイエス・キリスト、善悪の木と愛のおきての関係がわかりますか。
アダムが罪を犯したときには、エホバは、アダムをエデンの園から追い出し、命の木を与えないといわれました。しかし、罪から立ち返ったなら、再び命を与えるつもりでした。
命の木とはイエス・キリストのこと
実は、命の木とは、イエス・キリストのことです。イエスは、自分のことを、パンとぶどう酒としてたとえます。
そこでイエスは彼らに言われた,「きわめて真実にあなた方に言いますが,人の子の肉を食べず,その血を飲まないかぎり,あなた方は自分のうちに命を持てません。わたしの肉を食し,わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち,わたしはその人を終わりの日に復活させるでしょう。
(ヨハネ 6:53-54)
またイエスは、自分をブドウの木としてたとえます。つまり、イエスは、自分が、永遠の命を与えるための木であるということを、創世記の記述から意識していたということです。
わたしは真のぶどうの木,わたしの父は耕作者です。
(ヨハネ 15:1)
善悪の木とは、愛のおきてのこと
エホバは、アダムに、あなたはその木から食べてはならないといいました。ひとつのおきてをあたえ、それ以外のすべての自由を与えました。
実は愛のおきても、同じ構造をしているのです。
わたしはあなた方に新しいおきてを与えます。それは,あなた方が互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなた方を愛したとおりに,あなた方も互いを愛することです。あなた方の間に愛があれば,それによってすべての人は,あなた方がわたしの弟子であることを知るのです。
(ヨハネ 13:34-35)
パウロは「愛し合うことのほかに何も負いあってはなりません」といいましたが、愛のおきてが、ひとつのおきてであるということを理解していました。
また、イエスが与えたおきては、人を自由にします。つまり「愛さなければならない」が善悪の木に対応しており、それを守ることが自由をもたらすのです。
「わたしの言葉のうちにとどまっているなら,あなた方はほんとうにわたしの弟子であり,また,真理を知り,真理はあなた方を自由にするでしょう」。
(ヨハネ 8:31-32)
この関係を理解しておけば、創世記を読むときも、イエス・キリストの活動について読むときも、ますます意義深く、楽しいものになります。
旧約聖書と新約聖書は、切り離されてはいません。このように二つにわけて、呼ぶことは多くの誤解が生じると僕は思います。イエスは、旧約聖書を「律法と預言者たち」と呼びました。