信仰によって義と宣せられる

 義とはなんでしょうか。それは、正しいということです。「義に飢え渇く人は幸い」とイエスは、いいましたけれども、これは「正しいことを求める人は幸い」という意味です。

 正しさとは何でしょうか。正しさと不正を分ける基準はどこでしょうか。その基準は、神のもとにあると僕は考えています。

 自分自身によっては、自分自身を正しいとすることができません。自分自身で、自分自身を義と宣することはできないからです。

 自分自身のもとに正しさがあると考えているならば、むしろ神の義からは離れてしまっていると思います。自分自身の正しさを高めること、それは神を低めることにもなります。

 では、いったい人は何によって正しいとされるのでしょうか。それは、神の子に対する信仰です。

そうです,イエス・キリストに対する信仰による神の義であり,信仰を持つすべての者のためのものです。
(ローマ 3:22)

 信仰という言葉には、信じるという意味以上の意味があります。信仰という言葉は、信頼や誠実さも表しているからです。ただ信じているというだけではなくって、心からの信頼や誠実さを含んでいるのが、信仰という言葉です。

 父はイエスを遣わしました。イエスは、神の子であって、父の言葉を伝えにきました。そして、人の罪のために死にました。それで、神の子を人々の罪を許すために遣わしたということが、神の過分のご親切であって、神の愛の表れなんです。

 それで、神の子に対して信頼や誠実さを表すことによって、神は、人々を正しいとみなしてくださるのです。そして、義とみなされた結果、命を受けます。

 自分自身の正しさによって、自分自身を正しいとすることはできません。自分に罪がないというのであれば、神を偽り者とするので、それは不義です。そうではなくって、神の子に信頼や誠実さを表すことによって、神は、信じる人を義と宣します。