会衆には遊びと出会いがもっと必要

 会衆に足りないもの、それは遊びの気持ちだと思います。残念ながら現在のエホバの証人兄弟・姉妹は、遊ぶことに対して、強い罪悪感を埋め込まれてしまっていると思います。宣教奉仕・集会・予習をしないで遊んだ場合に、罪悪感を感じるように教育されてしまっているのです。

 兄弟・姉妹たちは、集会を休むとひどい罪悪感にとらわれるようです。集会を休んで旅行にいこうものなら、その兄弟・姉妹たちは、ひどく自分の気持ちが責められるように感じるようです。

 集会に行かないことは、罪ではありません。それなのに、兄弟・姉妹の心の中には、罪悪感が埋め込まれてしまっています。盗んだのであれば叱ればよろしい、暴力を振るったのであれば叱ればよろしい、嘘をついたのであれば叱ればよろしい、しかし、なぜ集会に出席しなければ叱れるのか。

 集会に出席しないことは罪でも悪いことでもありません。むしろ、罪でないことを罪と定めることが罪なのです。

善は悪である,悪は善である,と言っている者たち,闇を光,光を闇としている者たち,苦いを甘いとし,甘いを苦いとしている者たちは災いだ!
(イザヤ 5:20)

 僕は、会衆には遊びを肯定する感情が足りていないと感じています。若い人や子供たちが、率直に必要としていることに対して、無視を決め込んでいるようにも感じます。集会と宣教奉仕と個人研究をやっとけばいいんだという無責任さを感じます。

 それよりももっと、若い人たちどうしが、遊びの気持ちを持って、交流ができる場所が必要だと思います。何かゲームをしたり、簡単なスポーツをしたり、工作をしたり、そういう場所です。

 子供たちに大人たちのルールやマナーを守らせることばかりを、執拗に行い続けると子供たちはだめになります。心の狭い人間になってしまうと思います。盗むことやだますことに関しては、叱ればよい。けれども、それ以外のことに関しては、自由を感じることができる空間が必要だと思います。

 そうでなければ、子供たちは、自由な神について学ぶことができません。残念なことに、子供たちに植え付けられた神の姿は、抑圧と恐怖の神です。これは、親や会衆の年長者の子供たちへの厳しい接し方が、決定的に影響を与えています。