杭と十字架

 杭と十字架について、僕が考えていることを話したいと思います。この区別は重要なのでしょうか。それともそれほど意味がないのでしょうか。

杭が象徴しているのは、神に対してのろわれたものであるということ

 そもそも処刑の道具として、一本の杭であったのか、二本の杭(十字の形)であったのかということは、重要なことではないと思います。重要なことは、一本であろうと、二本であろうと、杭にかけられて処刑されたということです。

 ですから、訳としては、1本とか二本にこだわる必要はなくって、杭というニュアンスが伝わる言葉がよいと思います。処刑された刑具はその当時もちいられていた刑具であったと考えるのが自然でしょう。

 細部にこだわると、大切な内容が吹き飛んでしまいますね。大切なことは、杭にかけられるということが、神にのろわれたものであるということを象徴しているということです。

「また,ある人に死の宣告に価する罪があってその者が死に処せられ,あなたがこれを杭に掛けた場合,その死体は夜通し杭の上にとどめられるべきではない。その日のうちに是非とも葬るべきである。[杭に]掛けられるのは神にのろわれた者だからである
(申命記 21:22-23)

 イエス自身に罪は何もなかった。しかし、強盗と並べられて、極悪人のようにみなされ、さらし者になって死んだ。イエスは「神よ、どうしてお見捨てになったのですか」と叫んで死にました。

 イエスは、まさに、神にのろわれた者として死んだのです。

 ですから、刑具の細部の形にこだわる必要はなくって、おおむね、当時使われていた処刑具で処刑されたと考えていればよいと思います。

 大切なことは、杭にかけられるということが「神にのろわれた者」を象徴しているということです。この内容の部分のほうに着目するのがよいと思います。