愛は結合の絆

 聖書では、結合について語られることがよくありますね。クリスチャンは、キリストの妻という表現もありますし、パウロは、夫婦間の結合のたとえを、キリストとキリストを信じる者たちの間に適用します。

しかし,これらすべてに加えて,愛を[身に着けなさい]。それは結合の完全なきずななのです。
(コロサイ 3:14)

 最初の結合は、何かとえば、アダムとエバの結合です。性的な結合のたとえを踏まえて、パウロは話をしています。たとえば、こんな風にいいますね。

あなた方を貞潔な処女としてキリストに差し出すため,わたし自身があなた方をただ一人の夫に婚約させたからです。
(コリント第二 11:2)

 つまり、結合の話をするときには、パウロの頭の中には、男女のセックスによる結合が、想定としてあるということです。

 聖書は全体を読んでみれば、性的な表現はずばずばと結構でてきます。普通の感覚では、マナー違反とか、口に出すのは下品と思うでしょう。

 でも違うんですね。神が人に命じたことは「子を産んで多くなり、地に満ち溢れなさい」ということですね。セックスが悪徳とされるなどとは、思いもよりません。神が憎んだのは、セックスではなくって、淫行と姦淫だからです。

 夫婦の体の結合であれ、キリストとの思いによる結合であれ、それは、どちらも喜びであり、見下げられるものではないと思います。