神との語らい

 組織の欺まんを知ったので、祈ることがなくなったとしばしばブログに書かれていることがある。どういう意味だろうと不思議に思う。

 「ものみの塔協会への信仰」と「祈り」がひとつのセットになっていたということなのでしょうか。あるいは「宣教奉仕」と同じように「祈り」は、義務的なもので、周囲から模範生と見られるための道具だったのでしょうか。

 イエスは、父に呼びかけます

わたしの父よ,もしできることでしたら,この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
(マタイ 26:39)

 「わたしの父よ」と、イエスは、父に語りかけていますね。イエスは父と語らっていましたが、僕たちも同じように、父と語らうことができます。

 なぜなら、イエスに対して子よと呼びかけたその方がまた、僕たちをも子よと呼ぶからです。

そして彼らは,『あなた方はわたしの民ではない』と言われたその場所で,『生ける神の子ら』と呼ばれるであろう」。
(ローマ 9:26)

 父は存在するのか。それが、普通の人にとって率直な疑問でもあります。キリストの言葉はこうです。

神は霊であられるので,[神]を崇拝する者も霊と真理をもって崇拝しなければなりません」。
(ヨハネ 4:24)

 父はおられる。父は霊である。つまり、見えないといっています。見えないが、確かにおられる方に、イエスは、語りかけておられたのでした。

 確かに、見えないものを見ることは、見えるものにすがることよりは難しいのです。しかし、キリストの追随者の信仰は、見えない方への信頼です。

 そして、残念なことですが、クリスチャンの歴史はいつでも、偶像に汚され続けた歴史でもありますね。「真の」という人たちはいつでも、人々を、偽りの偶像に、身をささげさせてきました。