「苦しい」ということは「おかしい」ということだと気づこう

 エホバの証人の間には独自の価値観があって「苦しい」ということが、自分が立派だという基準になっているというのがある。

 「苦しい」ことが、神に是認される条件であって、この苦しみに耐えている自分は、神からみてすばらしいという信仰がある。

 これの何が一番問題だろうか。それは、自分の苦しみを人にも味合わせるということである。苦しいという問題は、自分だけの問題ではなく、その価値観を引きつぐ人たちにとっての、苦しみでもある。

 当人たちは、自分が苦しんでいるのだから、人に迷惑をかけていないと心から信じてはいる。けれども、事実を眺めてみれば、その雰囲気に飲み込まれて、他の人も、それと同じように苦しまなければいけないというような脅迫観念になってしまっている。

 「何かがおかしい」と感じるひとつの基準は「それが苦しい」かどうかである。絶えず苦しみが続くのであれば、それは、間違いなくおかしいことだ。

 強迫観念の抱いて自分の意思ではないことを行い続ける苦しみ、自分が何かを達成できないので、そのことに対して罪悪感や精神的な苦痛を味わい続ける苦しみ、そういう長く続く苦しみが、エホバの証人の心をぼろぼろにしていく。

 エホバの証人が間違ってしまうのは、この苦しみに耐えることこそが、神のご意思だと勝手に思い込んでしまうことだと思う。苦しいけれど、集会に出席し続けることがエホバのご意思、苦しいけれど、開拓奉仕を継続することがエホバのご意思、子供を鞭で討ち叩くことは苦しいけれど、これはエホバのご意思。

 辛さに耐えることがエホバのご意思なのですか? 聖書は実際に何を教えていますかという書籍で、みなさんは、もっとも基本的な聖句を学びませんでしたか。

 エホバの証人の兄弟・姉妹のみなさん、みなさんは、もう一度初心に返るべきです。この聖書の言葉をもう一度思い返して見ましょう。

試練に遭うとき,だれも,「わたしは神から試練を受けている」と言ってはなりません。悪い事柄で神が試練に遭うということはありえませんし,[そのようにして]ご自身がだれかに試練を与えることもないからです。(ヤコブ 1:13)

 兄弟・姉妹のみなさん。苦しみを耐えるように神が試練を与えているわけではないでしょう。ですから、苦しみに耐え忍ぶことをエホバのご意思といってはなりません。

 また、他の人や、子供たちに、耐え忍ばさせることを、エホバのご意思といってはなりません。