キリストへの信仰は、神の裁きに対する信頼でもある

 「裁く神」という観点が嫌いな人が多いと感じる。神は、殺人に対しては、殺人で報いる。神の裁きは「殺す」ということと関係がある。どうも、このような神の裁きという観点が、受けられない人が多いと感じる。

 もちろん、個人の信仰なので、そのような信仰が嫌であれば、受け入れなければ良いのだけれど、「聖書の神が、すべてを許す神であるべきである」というふうに論じられると、ちょっとまってよと思う。

 キリストは、父である神を、信頼しているし、その神は、ヘブライ語聖書に記述されている神だ。キリストは、神の裁きについて、何も否定しない。裁きがあるということを、十分に理解している。

 キリストは、「カナンに対して殺戮を行った神」を信仰しているのだ。キリストが、裁きの神、殺戮の神を、信仰しているのは、どうやっても曲げられない事実である。

 でもある人たちはこういう。「キリストは素晴らしいが、ヘブライの神はひどくて悪い」と。でも、僕は言いたい。キリストは「裁く神」を信頼しているし、父について、ひどいとか悪いなんていわない。

 キリストは、神に対して最後まで忠実であったし、その歩みは、心を打つものがある。そして、何より、神の裁きについて、宣べ伝えたのである。裁くのは、父である神から委任を受けたキリストだ。

「人の子がその栄光のうちに到来し,またすべてのみ使いが彼と共に[到来する]と,そのとき彼は自分の栄光の座に座ります。そして,すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分けます。そして彼は羊を自分の右に,やぎを自分の左に置くでしょう
(マタイ 25:31-33)

 そして、左に置いたものをどうするか。

「ついで彼は自分の左にいる者たちにこう言います。『のろわれた者たちよ,わたしから離れ,悪魔とその使いたちのために備えられた永遠の火に入りなさい。
(マタイ 25:41)

 永遠の火の中に放り込むとは、永遠の死を意味している。そして、これは、殺すということだ。聖書をよく読んでほしい。キリストが優しくって、ヘブライの神は、ひどいのだろうか。

 そうではないでしょう。キリストは、父に従い、裁きを行おうとしている。裁くとは、善人に報いて、悪人を殺すということだ。

 キリストの優しさとは、「今はまだ待ちましょう」ということなんです。最後には、裁きを行いますよ。

ついで[イエス]はこの例えを話された。「ある人が,自分のぶどう園に植えた一本のいちじくの木を持っていました。それで,それに実があるかと見に来ましたが,一つも見つかりませんでした。そこでぶどうの栽培人に言いました,『わたしはこれで三年もこのいちじくの木に実があるかと見に来たが,まだ一つも見つからない。これを切り倒してしまいなさい! いったいなぜこのために土地を無駄にしていなければいけないのか』。 [栽培人]は答えて言いました,『ご主人様,それを今年もそのままにしてやってください。いずれ周りを掘って肥やしをやりますから。 それでこれから先,実を生み出すようでしたら[よろしいですし],そうでなければ,切り倒してしまって結構です』」。
(ルカ 13:6-9)