過ぎ越しの祭り - それは、捧げられた羊の血によって、イスラエルの初子が守られたことを思い起こす祭り

 僕が不思議に思うのは、イエスが、弟子たちと最後にとった食事は、過ぎ越しの祭りの食事であるのに、それが、過ぎ越しの祭りであるということを、あまり説明しないことです。今年の記念式のパンフレットには、主イエスすら、登場しなくなってしまいました。

 イエスが、自分が犠牲になるのだと言ったときに、頭に思い浮かべているのは、過ぎ越しです。そして、パウロや他の聖書筆者は、過ぎ越しと比較することによって、その意味を語ります。

 まずマルコの一節を読んでみましょう。

さて,無酵母パンの最初の日,それは慣例として過ぎ越し[のいけにえ]を犠牲にする時であったが,弟子たちが彼にこう言った。
(マルコ 14:13)

 当時のイスラエルの認識では、過ぎ越しの祭りとは、過ぎ越しのいけにえの犠牲を捧げる祭りだと認識されていたということです。これは、エホバが、イスラエルを解放するために、エジプト人を打ったときの、最後の災厄に関係しています。羊を殺して、その血を、戸柱にぬることで、イスラエルの子供たちは守られました。

イスラエルの全集会に話してこう言いなさい。『この月の十日に,彼らは各々自分のため,父祖の家のために一頭の羊,家ごとに一頭の羊を取る。しかし,もし一家がその羊に対しては小さすぎるのであれば,その者とそのすぐ近くの隣り人とは,魂の数に応じてそれを自分の家に持って行くように。その羊を,各自の食べるところに応じて割り振るべきである。あなた方のために,その羊はきずのない一歳の雄であるべきである。若い雄羊から,あるいはやぎの中から選んでもよい。そして,この月の十四日までそれをあなた方の下に守っておき,その後イスラエルの集会の者たちの全会衆は二つの夕方の間にそれをほふらねばならない。また彼らはその血を幾らか取り,自分がそれを食べる家の二本の戸柱とその戸口の上部にそれを掛けねばならない。
(出エジプト記 12:8)

 そして、エホバは、過ぎ越すといいます。

そうすれば,エホバがエジプト人に災厄を下すために通られて戸口の上部と二本の戸柱に付いた血をご覧になる時,エホバは必ずその入口を過ぎ越し,滅びがあなた方の家に入ってあなた方に災厄をもたらすことがないようにされるであろう。
(出エジプト記 12:23)

 つまり、エホバは、血を見て、そこを過ぎ越すというのです。つまり、生かすということです。このことを、イエス・キリストも、パウロも、他の聖書筆者も意識しています。

そして,彼らが食事を続けていると,[イエス]はパンを取って祝とうを述べ,それを割いて彼らに与え,「取りなさい。これはわたしの体を表わしています」と言われた。また,杯を取り,感謝をささげてから,それを彼らにお与えになった。それで彼らは皆その[杯]から飲んだ。そうして[イエス]は彼らに言われた,「これはわたしの『契約の血』を表わしています。それは多くの人のために注ぎ出されることになっています。
(マルコ 14:22-25)

 イエスから、注ぎだされた血を浴びる者たち、そのものたちを、父は過ぎ越す、つまり、生かすということです。この象徴的な事柄を、ぶどう酒を飲むことによって、表現しています。つまり、戸柱というのは、皆さん方ひとりひとりの体で、ぶどう酒を飲むということは、血を振り掛けるということなんです。

 協会は、こういうことを、記念式の話で、ほとんど触れないようにしています。それは、きっと、この話をしたときに、ぶどう酒を見てまわすだけなんていうことが、不自然であることがばれてしまうからです。