マルコによる書

過ぎ越しの祭り - それは、捧げられた羊の血によって、イスラエルの初子が守られたことを思い起こす祭り

僕が不思議に思うのは、イエスが、弟子たちと最後にとった食事は、過ぎ越しの祭りの食事であるのに、それが、過ぎ越しの祭りであるということを、あまり説明しないことです。今年の記念式のパンフレットには、主イエスすら、登場しなくなってしまいました。 …

食卓の下の子犬もパンくずを食べるのでございます

先週は、聖書通読をし忘れました。書いてからあれれと思ったのですが、とき遅し。それでは、先々週にはなしていた、マルコ7章のスロフェニキア人のお話について、書こうと思います。 この話は結構興味深いです。まず、スロフェニキア人の女性が、子供をイエ…

小さな種が大きな木になる

神の国というものについて、イエスは、たとえ話でしか、解説しませんね。多くの人が、神の国が実現するというのは、どういうことだろうかと疑問に思っていますけれど、イエスは、神の国について、いつでも比ゆで語ります。 それが実際にどのようなものなのか…

この種のものは祈りによらなければどうしてもでません

弟子たちは、癒すための力をイエスから受けていましたが、汚れた霊を追い出すことができませんでした。弟子がイエスに質問したところ、イエスはこういいます。 すると[イエス]は彼らに言われた,「この種のものは祈りによらなければどうしても出ません」 (マ…

わたしはそう望みます

らい病の人がイエスのところにきて「あなたは,ただそうお望みになるだけで,私を清くすることがおできになります」といいます。イエスは返事をして「わたしはそう望みます。清くなりなさい」といいます。 また,ひとりのらい病人が彼のもとに来て,ひざまで…

種まき人はみ言葉を撒きます

種まき人は、み言葉を撒きます。 種まき人はみ言葉をまきます。 (マルコ 4:14) み言葉という神の言葉のことです。神の言葉というのは、植物の種のようなものです。いくら種をまいたからといって、強制的に大きくさせることはできません。植物は、時間をかけ…

無私の愛ということについて考えてみる

無私の愛というテーマは、ドラマなどでは、感動的な表現として描かれることがあります。自分の命を犠牲にして、人のために働いたという内容の映画から、感動を受けたということも多いかと思います。 理想化された世界では、僕たちはイメージによって、それを…

人を自分自身のように愛するということ

イエスはいわれました。あなたは人を、自分自身のように愛しなさいと。 『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』 (マルコ 12:31) ここがイエスの素晴らしい教えの部分だと僕は思う。自分を犠牲にして、人を愛しなさいとはイエスは教えなかった。…

寂しい場所に行き少し休みなさい

疲れたときは、どうしたらいいでしょうか。何事も一生懸命になりすぎると、体や心が疲れてしまいますね。また、人と接触しすぎると、疲れてしまうということもあるかもしれません。活動を継続して続けていくためには、少し休みも必要だと思います。 僕たちの…

わたしは義人たちではなく,罪人たちを招くために来たのです

イエスは、人々と飲んだり食べたりするのが好きでした。弟子たちだけの食事だけではなくて、まだ信仰を持っていない人たちとの食事の機会も持つようにしていました。今でいうと、神の言葉を伝えるために、エホバの証人ではない人たちとの食事の機会も持つよ…

イエスが到来する日と時刻についてはだれも知りません

イエスは処刑された後、復活させられて天に昇りました。イエスは、定めのときに(見えない様で)再び地上にこられるということを弟子たちに伝えていますが、それは一体いつのことなのでしょうか。 イエスの答えは、その日と時刻については自分は知らず、知って…

王はろばに乗ってエルサレムに入場する

皆さんはイエスに対してどのようなイメージを持っておられるでしょうか。イエスはさまざまな呼び名で呼ばれます。 聖書の中でイエスは、神の子、人の子、王、救い主、キリスト、メシア、大祭司、仲介者、預言者、征服を完了しに行く者、平和の君、などといっ…

第一でありたいと思うなら、みんなの奴隷でなければなりません

一般的に、地位を持っている人というのは、周りの人たちに対して威張ったとしても、表立って非難をされることはありません。 競争を勝ち抜いてお金や名誉を持っている人は、一目おかれます。 反対に社会的地位の低い立場についている人たちは、尊敬されるこ…