人を自分自身のように愛するということ

 イエスはいわれました。あなたは人を、自分自身のように愛しなさいと。

『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』
(マルコ 12:31)

 ここがイエスの素晴らしい教えの部分だと僕は思う。自分を犠牲にして、人を愛しなさいとはイエスは教えなかった。だからこれは「自分自身と同じくらい、人を愛してください。」という意味だ。神の公正な愛についてよく理解していたイエスの言葉。

 神は、あなたも愛しているし、他の人も愛しているということ。他の人を気遣うということはよいことです。でも、そのために、あなた自身が犠牲になり続けるとしたら、それはよくないことです。

 「自分さえ我慢しておけば、ここはうまくいく」といって、自分を抑圧していませんか。そして、自分が抑圧されていることの不満や怒りが、他の人への抑圧や、ねたみを引き起こしていませんか。いつでもどこでも聖人君子でいられるわけもないので、きっとどこかで愚痴っているでしょう。

 どこかで愚痴っているとしたら、自分は嫌な思いをしていて、犠牲になっているということです。「漠然としたみんな」のために、本当に自分自身を犠牲にする必要があるでしょうか。

 「組織にとって貢献することは、神の目から見てよいことです」「組織のために死ぬのであれば、神は賞賛してくれるでしょう」という犠牲は、どこかおかしくなっています。

 ものみの塔協会は、はっきりとは言いませんけれども、いいたいことは上記のような内容だと思います。「組織のためにあなたが死ぬことはよいことだ。あなたのために組織が乱れるよりは、あなたが死ぬほうがいい」ということを、いっています。

 普段は優しいエホバの証人が、組織弁護のためには、世界で最も冷たい人に豹変することがあります。組織崇拝が、心の中に根付いてしまっているので、組織批判に対しては、平気で個人を攻撃することがあります。排除も無視も傷つける言葉も平気で言うことがあります。こういうことが、各地で起こっているようです。

 それでもし、エホバの証人になろうとされている方がいらっしゃたら、現状のエホバの証人にはこういう問題があるということを知っておいてください。

 「自分自身を愛するように、人を愛しなさい」という言葉に堅くつくほうが、どんなによいことだろうかと思います。自分自身を犠牲にして、人を愛する必要はないんです。

 自分自身を愛するように、人を愛することができれば十分なんです。それさえも、難しいことだと思います。自分も人も、公正に愛するというのは、本当に難しい。