無私の愛ということについて考えてみる

 無私の愛というテーマは、ドラマなどでは、感動的な表現として描かれることがあります。自分の命を犠牲にして、人のために働いたという内容の映画から、感動を受けたということも多いかと思います。

 理想化された世界では、僕たちはイメージによって、それをよいものとみなすことができますが、実際の僕たちといえば、血と肉を持つ人間です。転んで怪我をして、自分の足を痛めたならば、それをいたわります。

 井上揚水が「傘がないー」と歌っていますが、世界の子供たちが栄養失調で苦しんでいたとしても、一番の関心ごとは、雨が降っているのにかさを忘れて、ぬれるのが嫌だなぁということなのです。

 僕は、自己愛というものを肯定したほうがよいと思っています。滅私奉公という考えや、自己犠牲という考え方は、支配者にとっては、好都合だからです。お国のために、組織のために、会社のために、人々のためにという考え方は、いつでも利用されがちです。

 特に子供たちは犠牲にされがちです。親が自分で養ってきた自己犠牲の観念を、そのまま子供に持ち込もうとするからです。自分自身への肯定感を失った子供たちは、その後の人生で、影を落としがちになっている現実があります。

 一般的にストイックな人たちというのは、自分と同程度のストイックさを人にも求めがちなような気がします。

 イエス・キリストはなんといいましたか。

あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない
(マルコ 12:31)

 自分自身のように愛さねばならない。自分を愛するように、自分が愛されてきたように、愛さねばならない。