主の祈りを読む

 僕は、祈るという行為を、見下げる人が多いと感じる。祈ったのに、神に届かなかった。そして、祈りには意味がないという。ほとんどの人は、本当の意味での祈りというものをまだ知らないのかもしれない。

 クリスチャンであるといっているのに、99の批判があるけれど、1の祈りもないのはどうしてだろうかと思う。それは、祈るということに何の価値も見出していないということだ。人は、自分が価値を感じるものを、口から出す。それが、口からでないということは、そもそも、価値を見出していないということだ。

 騒がしい場所を一度離れて、静かな場所で祈りをするのは、価値があると思います。祈りは、自分を謙遜にしてくれます。祈りは、自分の心を落ち着かせてくれます。祈りは、自分の道の歩みを、振り返るのに役に立ちます。

 祈りは、自分の罪を思い出すのに役に立ちます。罪の自覚は、許しを求める感情へと変わります。そして、その感情は、人を謙遜にならせます。神に願うこと、神を求めること、そのこと自体に価値があります。

 祈りは、善人を装う体裁なのではありません。人前で、自分が立派であることを示すためのものなのではありません。それは、静かな場所における、自分と神との関係なのです。神を認めること、そのことが、心を柔和にさせます。

 イエスは、このように祈るように進めました。

「そこで,あなた方はこのように祈らなければなりません。


「『天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。
あなたの王国が来ますように。
あなたのご意志が天におけると同じように,地上においてもなされますように。
今日この日のためのパンをわたしたちにお与えください。
また,わたしたちに負い目のある人々をわたしたちが許しましたように,わたしたちの負い目をもお許しください。
そして,わたしたちを誘惑に陥らせないで,邪悪な者から救い出してください』。
(マタイ 6:9-13)

 天の高きところに神がいます。そのお名前が神聖なものにされますように。生活の糧を得られますように。誘惑に負けないように。そういう祈りです。