聖書が伝える真理「復活」

 聖書を読もうと思うとき皆さんはどのような観点で聖書を読もうと思われますか。物語のひとつとしてとらえて、他の小説などと同じ感覚で読もうとされるでしょうか。また創造の神話が載せられたもので、聖書に書かれた奇跡的なできごとは現在の科学の基準からすれば、ありえないと考えるでしょうか。

 聖書が教える基本的な真理のうちのひとつは「復活」です。 

記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。
(新世界訳聖書 ヨハネ5章28節)

 記念の墓の中にいる者というのは、すでに死んだ人たちです。彼の声というのは、イエスの声のことです。つまり、すでに死んでいる人たちがイエスの声によって復活するときがくるということです。

 わたしたちは普通、人生の終わりは死であるというふうに教えられます。それで、今この人生を楽しむことに大きな注意が向けられます。「明日死んでしまうかもしれないのだから精一杯生きよう、今を大切にしよう」といいます。

 実は聖書にもパウロという人が語ったこんな言葉があります。

もし死人がよみがえらされないのであれば、「ただ食べたり飲んだりしよう。明日は死ぬのだから」[ということになります。]
(新世界訳聖書 コリント第一15章32節)

 もしたどり着く最後の場所が死であれば、そこには希望がないことになります。けれども、たどりつく最後の場所が命であれば、それは希望になります。けれども、復活の希望というのは非現実的なものでしょうか。

 それはそうともいえないのです。聖書を勉強していくと、生命を創造した神が実際におられるという確信が強まっていきます。もし生命を創造された方がいるのであれば、復活のとき新しく体を用意することもできるのではないでしょうか。人間の観点からは不可能なことであっても、神にとっては可能なのです。