愛していると言うことと、実際に愛すること

 心配している、愛しているというのは、簡単です。人は、愛の名によっていろいろなことを正当化してきました。

 たとえば、国を愛しているという理由で、他の国と戦争を行ってきました。神を愛しているという理由でも、宗教戦争を行ってきました。

 愛しているから体罰を使ってよいという人もいます。愛し合っているから、結婚前にセックスをすることは正しいという人もいます。

 愛の名において罪が犯されてきました。実際に、愛するということはどういうことでしょうか。聖書はこういいます。

愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,みだりな振る舞いをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません。
(新世界訳聖書 コリント人への第一の手紙13章4節)

 愛は辛抱強いということです。感情的になって人の悪口をいったり、いうことをきかない場合に暴力に訴えたりしないという適用ができるかもしれません。

 刺激されてもいらだちません。聖書研究をしているときに、どうも自分の考えと、研究生の考えが違うときがあります。そんなときにどうしてこれが正しいのに受け入れることができないのと、いらだつときがあります。

 でも、そんなときは愛の原則を思い返して、いらだたないように神にすかさず祈りを捧げることができるかもしれません。

 また話しをするときに、自分と意見が異なると、ケンカのようになってしまうことがあります。でも、刺激されてもいらだたないということを覚えておくと、自分にとっても、相手にとっても、会衆にとっても、建設的で有意義な話し合いができると思います。

 長老に話しをしたり、何かを伝えたりすることは、不敬な行為ではないし、長老が判断する上で貴重な材料となります。

 長老からいつも何かを受けようとするのではなくて、与えることは聖書的にもよいことです。「受けるより与えるほうが幸福」だからです。

 文句を言うのではなくって、敬意を持って話すことができます。サラがアブラハムに提案をしたときに、エホバがそれを受け入れるようにアブラハムに言ったことからも、伝えることは不敬なことではないということが理解できます。