「忠実で思慮深い奴隷」と「見える地上の組織」への賛美がないと長老になれないシステム

 クリスチャン会衆の監督はどのように選ばれるのでしょうか。それは、神の言葉聖書に基づいてです。

監督の職をとらえようと努めている人がいるなら,その人はりっぱな仕事を望んでいるのです。したがって,監督は,とがめられるところのない人で,一人の妻の夫であり,習慣に節度を守り,健全な思いを持ち,秩序正しく,人をよくもてなし,教える資格があり,酔って騒いだり人を殴ったりせず,道理をわきまえ,争いを好まず,金を愛する人でなく,自分の家の者をりっぱに治め,まじめさを尽くして子供を従わせている人であるべきです。(実際,自分の家の者を治めることも知らない人であれば,どのようにして神の会衆を世話するのでしょうか。)また,新しく転向した人であってはなりません。[誇りのために]思い上がり,悪魔に下された裁きに陥るようなことがあってはいけないからです。さらに,その人は外部の人々からもりっぱな証言を得ているべきです。非難と悪魔のわなに陥ることのないためです。
(テモテへの第一の手紙 3章1-7節)

 「ひとりの妻の夫であり」というのは、「結婚しているべきである」という意味ではなくて、「複数の妻を持っていない」という意味です。

 「子どもを従わせているべき」であるというのは、まずは家庭が第一というパウロの助言ですね。どうして、家庭が崩壊しているのに、それを放っておいて監督の職ができるでしょうかという意味ですね。まず子どもに愛や関心を注いでくださいという意味ですね。

 外部の人というのは、自分のいるクリスチャン会衆外の人という意味ですね。巡回監督や統治体のことではないです。

統治体はこの上に「忠実で思慮深い奴隷」と「見える地上の組織」への賛美を求める

 「忠実で思慮深い奴隷」というのは実在する団体ではありません。「見える地上の組織」というのも実在する団体ではありません。統治体は実在する団体です。ものみの塔聖書冊子協会も実在する団体です。

 「統治体」にとっては「忠実で思慮深い奴隷」は「統治体」を指す神学的な称号です。「ものみの塔聖書冊子協会」にとっては、「見える地上の組織」は「ものみの塔聖書冊子協会」を指す神学的な称号です。はっきとはそう断言しませんが、エホバの証人の兄弟・姉妹にそう思わせるような文章を書きます。

 「統治体」と「ものみの塔協会」は、決して自分自身への直接の賛美は求めません。露骨に行うと、神へ賛美を向けていないということがばれやすいからだと思います。また法的に責任を回避したいという意図があると思われます。

 「忠実で思慮深い奴隷」と「見える地上の組織」を賛美を植えつけることは、とても巧みに少しづつ行われていきます。少しづつ行われていくので、自分が神への崇拝から引き離されていっていることに気づきにくいです。

 そのひとつは今回紹介する『「忠実で思慮深い奴隷」と「見える地上の組織」への賛美がないと長老になれないシステムです。』

 統治体は自分で作ったマニュアルの中で「忠実で思慮深い奴隷」と「組織」への賛美を、会衆の祈りの中に含めるようにという提案を出します。「統治体」や「ものみの塔協会」という言葉ではなくて、「忠実で思慮深い奴隷」と「組織」を含めるようにという提案です。これを巡回監督が会衆に持ってきます。

 「奴隷級に感謝しています」「組織に感謝しています。」「素晴らしい食持をくれることに感謝します。」「出版物をエホバが与えてくださったことに感謝します。」「組織に対する認識が深まりました。」「組織をエホバがもちいているという認識が深まりました。」「素晴らしい大会を企画してくださった奴隷級に感謝します。」特に地域大会や巡回大会や特別一日大会での祈りでは、この傾向が顕著です。

 祈りを担当する兄弟がいますが、その兄弟たちに、巡回監督は「忠実で思慮深い奴隷」と「見える地上の組織」への賛美を述べるように提案します。賛美とはいいません。うまく隠すために「感謝を述べましょう」といいます。

 これが踏み絵になっていて、これをクリアしないと、長老になったり、大会で話しを割り当ててもらったりすることができません。「長老」や「大会への話し手」という「特権」への愛をえさにまいて、「忠実で思慮深い奴隷」と「見える地上の組織」への賛美を徐々に浸透させていくシステム。これが統治体の方法です。

 一方表面的な部分、たとえば「配布用ものみの塔」「配布用目ざめよ」「Webサイト」「聖書は実際に教えていますか」では、ほばこのことを語りません。

 どうか統治体の兄弟たち、たくみな手段で自分たちへの愛を育てるのではなくて、神への愛によって歩んでいきませんか。イエス・キリストを通して神を賛美しましょう。見栄えや外から見える部分ばかりを整えるのではなくて、内面をよくしていくことによって、外面にそれが自然と表れるようにしていきませんか。