霊的な体

 さて以下の聖句を検討してみます。

物質の体でまかれ,霊的な体でよみがえらされます。物質の体があるなら,霊的な[体]もあります。まさにそう書かれています。「最初の人アダムは生きた魂になった」。最後のアダムは命を与える霊になったのです。
(新世界訳聖書 コリント人への第一の手紙15章44節)

 自然に読めば、「物質の体」と「霊的な体」が対比されているので、物質の体は目に見え、霊的な体は目に目に見えないように解釈すると思います。それで統治体は「霊的な体」という言葉を「天で復活する14万4000人の見えない体」という風に解釈しています。

 けれども、聖書を、特定のグループのためのメッセージではなくて、すべての人のための書物という観点で読みたいものです。そういう読み方について見当してみます。

 この聖句の前の部分ではパウロは「死人の復活についてもこれと同じです。朽ちる様でまかれ,朽ちない様でよみがえらされます。」と書いています。

 朽ちてしまう体とはなんでしょうか。それは、アダムから受け継いだ罪を負っている体のことではないでしょうか。では朽ちない体とはなんでしょうか。それは、イエス・キリストが復活したときに身に着けていたような体のことではないでしょうか。

 ですから「霊的な体」を「霊で構成される見えない体」ではなくて、「神の霊の働く見える体」ととらえると、この部分の聖句を、すべてのクリスチャンに当てはめることができます。パウロは、この聖句で、天での復活ではなくて、地上での復活を語っていると考えるのです。

「物質の体」とは「アダムの罪を受け継いだ古い体」、「霊的な体」とは「神の霊の働く新しい体」と解釈すると、すべてのクリスチャンに当てはめて読むことができる。