現在わたしたちは金属の鏡でぼんやりとした輪郭を見ています

 聖書には預言とか異言という言葉がでてきます。コリント人への第一の手紙の文脈で述べると、預言にしても、異言にしても神から与えられるものです。

 預言というのは周囲の人が聞いて理解することが容易ですが、異言は、解釈が与えられないと何をいっているのかよくわからないという性質のものです。

 たとえば「エルサレムは70年間荒廃する」というのは、だれにとっても理解がしやすいですね。だから、預言的な性質を持っている神の言葉だといえます。

 いっぽう「神の王国は、からしの種粒のようです。」というのは、ちょっと理解が難しい。解釈が与えられないと、何を言っているかよくわからないですね。だから異言的な性質を持っているといえます。

 ある人たちは、聖書に書かれている預言や異言にたいして、解釈を急いだり、解釈を確定させようとしたりします。これが現在の正しい解釈だ、この解釈は神のご意思に基づいているとか、そういうことをいう人がいます。

 たんなる仮設や推測ならよいのですが、それを根拠に、それ以外の解釈をのべると背教者とみなす人もいます。そのような人は、聖書に書かれている、預言や異言がどのように扱われるべきものなのかを理解していません。

 パウロはこういいます。

現在わたしたちは金属の鏡でぼんやりした輪郭を見ていますが、その時には顔と顔を向かい合わせて[見るの]です。
(新世界訳聖書 コリント人への第一の手紙13章12節)

 洗面所にある鏡というのは、本当の鏡で、自分の顔をはっきりと見ることができます。お化粧をするときとか、ひげをそる時とか、髪の毛をセットするときに、鏡をみます。しっかりと顔が映っているので、顔と顔を向き合わせてみることができます。

 一方金属の鏡ってなんでしょうか。それは、たとえば、アルミニウムの板の前に立ったといきのことを思い浮かべてみたください。なんとなく反射があって、顔や目や口といったものが、ぼんやりと映りますね。でも、顔がはっきりと見えません。

 はっきりとしたものではなくて、どこか部分的にわかるといった程度です。聖書における預言や異言もこのようなもので、知識は部分的なものなので、はっきりと解釈を確定させることができません。

 今はぼんやりと将来何が起こるかを、理解することができているだけで、その時になって始めて、解釈が確定します。「秘密を解き明かすのはエホバ」です。

 ですから、解釈を確定させて、押し付けようとする人たちとは、少し距離をとっておくのが賢明だと思います。