ヨハネの福音書は、残りの三つの福音書を補足するために書かれたと見るのはどうでしょうか

 僕自身は、聖書の無謬性を信じていません。聖書全体としてみれば、信頼できるけれど、細部に関しては、多少の食い違いがあるというのが、現在の僕の考え方です。主義・主張は最初から最後まで一貫していますが、細部については、人間が書き記したものなので、間違いがあると思います。

 たとえば、地図があって、その部分部分については、破れや細かな傷があったとしましょう。けれども、その地図は全体としてみれば、目的地がわかるようになっています。聖書は、このような書物だというのが、現在の僕の認識です。

聖書は、小さな破れや傷があるが、全体として眺めれば神の目的がわかるという構成になっている

 たとえば明らかな食い違いを指摘してみましょう。この部分は、みっつの福音書の間違いであることを、ヨハネは知っているというような雰囲気で書かれています。

 パブテストのヨハネの捕縛の時期に関するものです。

 まずマルコによる福音書を見てみましょう。バプテストのヨハネはいつ捕縛されましたか。

さて,ヨハネが捕縛されたのち,イエスガリラヤに行き,神の良いたよりを宣べ伝えて,こう言われた。(中略)ガリラヤの海辺を歩いておられた時,シモンとシモンの兄弟アンデレが海で[網を]打っているのをご覧になった。
(新世界訳聖書 マルコによる書1章14-16節)

 どの時期だと思いますか。それは、シモンを弟子にする前です。

 では次に、ヨハネによる福音書を見てみましょう。バプテストのヨハネはいつ捕縛されましたか。

こうした事ののち,エスとその弟子たちはユダヤ地方に入った。そして[イエス]はそこで彼らと共にしばらく過ごして,バプテスマを施された。しかしヨハネも,サリムに近いアイノンでバプテスマを施していた。そこには多量の水があったからであり,人々は次々にやって来てバプテスマを受けていた。ヨハネはまだ獄に入れられていなかったのである。

 ヨハネによる書の記述では、エスが弟子を作った後に、ヨハネはまだ捕縛されていません。「ヨハネはまだ獄に入れられていなかったのである。」という記述は、自分のほうが正確なことを知っているよというニュアンスに感じ取れます。

 だから、ヨハネが書き換えたとか、捏造したというよりは、福音書の事実の間違いを補足的に指摘していると見たほうがいいと思います。ヨハネ教団が、自分たちの都合のよいように書き換えたなんて証拠は、どこにもないと思います。それは単なる仮説です。

 聖書は無謬であるという統治体の見解は明らかに間違っていると思います。神の聖霊が働いたから完璧に正しいということはなくて、人間が書き記したものなので、細部に関しては間違いがあります。しかし、全体として眺めたときは、細部の傷が打ち消されるようになっているように感じます。