罪のない者を罪に定めなかったでしょう
「完全さ」とはなんでしょうか。聖書的な意味では、スーパーマンという意味ではありません。またミスをしないという意味でもありません。完全さとは、簡単にいえば、100ちょうどであって、50でも150でもないという意味です。
たとえば、善を悪ということ、悪を善ということ、これは「完全」ではありません。罪な行為を、良い行為だといったり、また反対に罪ではない行為を罪に定めていることになるからです。
エホバはイスラエル人の罪を裁きました。これは、律法に書かれていたおきてを踏み越えて、イスラエル人が行動したからです。
またイエス・キリストはパリサイ人を糾弾しましたけれど、これは、罪ではないことを罪に定めて人を裁いていたからです。
ものみの塔協会は多くのことを罪に定めて来ましたし、それを強化しようとしているようです。「宣教奉仕をしない罪」「組織に意見する罪」によって、背教とみなして、「排斥」あるいは「みなし断絶」を行うことができるように、裏側では進めているかもしれません。
それが行われると、たんなる恐怖政治になってしまいます。
「父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい」とイエスは言われました。完全さとは、イエスの小さなおきてを背負うことです。それは、互いに愛し合うことであって、それは、律法を完全なものにします。すべての律法は、隣人を愛しなさいに要約されるからです。
互いに愛し合うことのほかに、何も負ってはなりません。多くのものを人の肩に乗せてはいけませんし、罪ではない人を罪に定めてはいけません。
しかし,『わたしは憐れみを望み,犠牲を[望ま]ない』ということの意味を理解していたなら,あなた方は罪科のない者たちを罪に定めたりはしなかったでしょう。
(マタイ 12:7)
神は憐れみを望み、犠牲を望まない方です。神の思いを理解してさえいれば、罪にない者を罪に定めることなどなかったでしょう。
聖書は実際に何を教えていますか
聖書の教え。
罪のない人を罪に定めないようにしましょう。
偽りの教え。
宣教奉仕をしない人や、組織に意見をする人を背教者とみなす。