イエス・キリストは、たったひとりで、最後の犠牲となられた

 イエスは、罪の犠牲となられましたが、イエスが、望んでいたことは、それが、罪に関する最後の犠牲であることです。イエスを、弟子たちが守ろうとしましたが、犠牲になるのは、自分だけでよいと考えました。また、それが神のご意思でもありました。

 イエスが、捕縛されそうになったときに、イエスは、自分以外のものを下がらせました。そして、マタイは、イエスが、聖書の預言を踏まえていることを記しました。

これは、「わたしに与えてくださった者のうち、わたしはその一人をも失いませんでした。」と言われた言葉が成就するためであった。
(マタイ 18:9)

 イエスは、敵と戦うときに、イエスを信じるものたちが犠牲になることを望んではおられません。たったひとりの犠牲をも出したくはないと考えています。

 もうだれも、敵と戦うために、自分が大きな犠牲になる必要はないと思います。それよりかは、仲間たちと少しづつ協力して、みんなで、問題点の改善に取り組んだほうがよいと思います。

 みんなが少しづつ、力を出し合って、それが大きな力になったほうが、痛みは少ないと思います。ひとりが、大きな犠牲になることは、僕は望みません。