1919年を取り除く

 1919年に何が起こったかということに関する解釈は、転々としていきますが、必要なことは、1919年という年代に、意味を与えること自体をやめることです。1919年に何かが起こったわけでもなく、何かが始まったわけでもありません。

 そもそも、1919年に意味を与えたのは、年代計算ですらありません、ラザフォードたちが、1919年に監獄から解放されたので、自分たちにその年に神の祝福があったと、思い込んだだけなのです。

1919年に意味を与えたのは、神でも聖書の預言でもなくて、ラザフォードが保釈されたから。

 現在のものみの塔協会と統治体は、ラザフォード派の末裔であり、ラザフォード教を引き継いでいますから、ラザフォードが、保釈されたとしである1919年という年代になんとしても意味を与えたがる人が、統治体とものみの塔協会には残っています。

 1919年という年代は、聖書や神とは何の関係もなく、ラザフォードというただひとりの人間のひとことに関わる年代です。1919年の信望者は、聖書や神ではなくって、ラザフォードというひとりの人間を信望しているのです。

 長老や巡回監督に1919年について聖書から説明してくださいとお願いしてみてください。決して、彼らは答えることができません。それはたんに、ラザフォードが保釈された年だからです。

 それはただ単に、ものみの塔協会二代目会長ラザフォードが、保釈された年です。つまり、1919年という年代は、ものみの塔協会崇拝、ラザフォードという個人崇拝に、直結しているということです。そんな年代を、巡回監督や長老たちは、いいふらし、それを否定した人たちを排斥してきました。

 もう1919年に、聖書的な何かが起こったということを考えるのは止めにしませんか。その考え自体が、兄弟・姉妹を混乱させ、分裂に導いているのではないでしょうか。クリスチャンは、ラザフォードの信望者でなければならないのですか。そうではなくって、神とイエスの信望者でなければなりません。



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