パウロは賢い作業監督としてイエス・キリストという土台を据える

 聖書には、ときどき監督という言葉ででてきます。僕たちエホバの証人の組織で使う言葉の中にも、監督という言葉があります。

 監督というのは、どのような監督を指していると思われますか。僕たち日本人は、きっと野球の監督やサッカーの監督を思い浮かべるのではないでしょうか。上に立って指示を出すイメージですね。でもちょっとそのイメージとは異なるようです。

 一番イメージが近いのは、建物の工事現場の作業監督です。建物を建てるときは、まず基礎と呼ばれる土台を据える必要があります。この基礎がしっかりしていないと、見た目には頑丈な建物に見えたとしても、建物はとてももろいものになってしまいます。

 それで、工事現場の監督は、この基礎がしっかりと設けられているか、その基礎の上に適切に、建物が建てられているかを完成まで見守っています。

 基礎の部品がもろいものであったらなら、頑丈なものにするように、指示を出す必要があります。もし建物の組み立てかたに間違いがあるならば、それを直すように指示をだす必要があります。

 その目的は、しっかりとした建物を完成させるためです。

 パウロは自分のことを、作業監督としてたとえています。他のクリスチャンの上に立つ者としてではなく、仲間を見守る作業監督として自分を示しました。

 わたしは,自分に与えられた神の過分のご親切のもとに,賢い作業監督として土台を据えましたが,ほかの人がその上に建てています。しかし各人は,自分がその上にどのように建てているかをいつも見守っているべきです。据えられているもの,それはイエス・キリストですが,それ以外の土台を据えることはだれもできないからです。
(新世界訳聖書 コリント人への第一の手紙3章10,11節)

 ですから、クリスチャンの会衆ではどのような立場にあるとしても、上下関係はなく、みんなが同労者です。目的は、クリスチャン会衆をイエス・キリストの上に築きあげることです。

 そのようにして、クリスチャン会衆は永遠の命を目指して、しっかりしたものとして成長してゆくことができます。長老はクリスチャン会衆を見守る監督としての役目を果たしてくださっています。

 ですから、長老に対しては、地位のゆえに褒めるのではなく、その働きのゆえに感謝をしましょう。作業監督として、多くの仕事をこなしてくださっているその働きのゆえに、感謝を示すことができます。

 奉仕の僕も長老も巡回監督もベテル奉仕者もみな僕たちの同労者です。何か地位や名誉のようなものを、立場のゆえに与えてほしいとは思っていません。「現場監督としての働き」のゆえに感謝しましょう。

 そう考えれば、姉妹や子どもたちに仕事を手伝ってもらったときには、「その働きのゆえに」素直に感謝を示せるのではないでしょうか。

 イエス・キリストの上に立てられていない会衆は、立派に成長しているように見えても、試みがあるときにはもろく崩れてしまうかもしれません。

 エホバの証人は、しっかりと土台としてイエスを据えようと努力していますが、ここはサタンの世です。それで、それぞれひとりひとりが、しっかりと自分の歩みを見守るように努力する必要があります。

 ぜひ長老の皆さんにお願いですが、パウロと同じように、会衆の土台としてイエス・キリストがしっかりと据えられているかをどうかを見守ってくださるようお願いいたします。