聖書は神の霊感を受けたもので有益です

 聖書は神の霊感を受けた預言者たちによって書かれた書物だ。聖書には確かに神の言葉が書かれていて、それは僕たち人間ののために書かれた。

 聖書全体は神の霊感を受けたもので、教え、戒め、物事を正し、義にそって訓育するのに有益です。
(新世界訳聖書 テモテ第二3章16節)

 エホバ神がご自分のご意志を僕たちに伝えるために書かれた貴重な書物、それが聖書だ。聖書を読むと、とてもいとおしい気持ちがわいてくる。神が僕たちのことを気遣ってくださっているのだということが、確信できる。

 聖書は1600年ほどの期間において、たくさんの神の預言者たちによって書かれた。それなのに、その主張は首尾一貫している。聖書の全体を読むと、これがエホバのご意志の元に集められた書物だという確信は確実なものになっていく。

 僕はこのブログで何回か書いたけれど、ものみの塔と書籍だけでは、聖書についてうまく理解することができない。ものみの塔が間違っているとかそんな意味じゃないよ。ものみの塔はよく調べられて書かれている良書だ。

 でも聖書を読まないことには、本当の意味で神のご意志を理解するということは難しい。聖書は調和している書物なので、全体を読み通すことができると、聖書の言葉の意味がはっきりとしてくる。

 たとえば、特権という言葉は聖書ではどんな意味で使われているのだろうかとか、サタンというのはどのような存在なのだろうかとか、聖書の忠実な預言者たちはいつもエホバを思いの中においていたこと、エホバの公正さについてなど、たくさんのことが実感できるようになってくる。

 エホバの公正の感覚というのは、やっぱり聖書を読み通さないと知ることができない。エホバの愛や力、裁き主としてのエホバについても、やっぱり聖書を読み通さないと知ることができます。

 もちろん聖書は難しい。それでも少しづつ読んでいく。現実的には、最初は出版物が中心で、聖書が従という読み方をしていくしかないと思う。それくらい聖書の意味をつかむのは難しい。でも、ものみの塔自体の中にも書かれていたように、ものみの塔は聖書のお供という位置づけだ。

 エホバの証人の人はみんな聖書が一番大切というと思う。出版物は理解を助けるものです。とみんないうと思う。だから、出版物を中心にして、聖書を読むというのは、少し違って、聖書を中心にして、出版物を助けにしないといけないと思う。

 聖書についての知識が深まっていったなら、聖書を深く読んでいくということを、ぜひしたらよいと思う。それは、本当に宝を探すような感覚で、エホバの良い言葉を見つけることができると、本当にうれしい。あぁ、エホバはこんなことを伝えようとしてくれていたんだなぁって思う。

 宣教をするときもそうだし、なにかアドバイスをするときでもそう、いつでも聖書から、エホバについて話せるとうれしい。ぜひ奉仕の僕や長老を目指している人は、聖書通読をがんばってほしい。聖書を中心にして、ライブラリなんかでわからないところがあれば、ときどき調べながら読んでいくのがよいと思う。