エホバに対して生きたいと思った

 30年以上エホバの証人を続けてこられたbereshit007さんが、エホバの証人の長老に関して記事を書いておられたので、感想を書いてみたい。

会衆の長老とのトラブルに巻き込まれた時のアドバイス
バランスを保つために
(アドラムの洞窟 I HAVE LOVED THEM)

 まず現状認識について。

 残念ながら作文の上手な兄弟ほど事務処理きちんとしたい奉仕事務所の兄弟に高く評価されるのが現状です。個々の人を助ける事ではなく、いかに協会からの指針となるマニュアルにそってするかが長老たちの一番の関心の的です

 実はエホバの証人の長老になるためには、聖書の理解はそれほど必要ではありません。事務処理をミスを少なく行えるかどうかが、長老の資格として重んじられていることです。聖書的には長老になるための資格を満たしていたとしても、事務処理の能力が優れていない兄弟は長老になることができません。またこの点で、巡回監督も同じです。

組織としての協会の仕組みを理解して頭がいい長老たちがいます。

 どうすれば長老になれるか、どうすれば大会で話をする立場を得ることができる、どうすれば巡回監督なることができるか、どんな人脈に認められばよいかということをうまく理解している兄弟は、よい立場を得やすいという傾向があります。

 反対に不器用な兄弟は、一段低く見られたり、ないがしろにされる傾向があります。そんな兄弟がひどく注意されたり、痛い目にあっているのを見ているので、利口な兄弟は、長老や巡回監督によく見られるように無難に振舞う癖がついてしまいます。

 人に対してというより、エホバに対して生きるという聖書の大きな指針を忘れちゃうんですね。

 兄弟は、長老に認められるために、長老は巡回監督に認められるように、巡回監督は地域監督に認められるように、地域監督は支部の兄弟たちに認められるように、支部の兄弟は、本部の兄弟たちに認められるように、本部の兄弟たちは統治体の兄弟に認められるようにと、この承認の連鎖がエホバの証人の兄弟関係を息苦しいものにしているのだと思います。

 すべての兄弟がエホバに対して生きることができるならどんなに気持ちがよく、心は軽いものになるのでしょうか。「わたしたちは,生きるならエホバに対して生き,死ぬならエホバに対して死ぬからです。」という聖書の言葉をみんなが行うことができれば、よりよくなっていくんじゃないかと思います。