善を悪、悪を善ということをもうやめませんか

 聖書の中には「善は悪である,悪は善である,と言っている者たちは災いだ」という言葉があります。よいことを悪いことのように言い、悪いことをよいことのようにいう人たちは、よくないことをしているという意味です。

 たとえば、長老たちは、たくさんのよいことを悪いといってきました。たとえば、髪の毛が耳にかかること、あごひげを生やすこと、スカートではなくズボンをはくこと、宣教奉仕の時間を少なくすること、クールビズを個人の決定で行うこと、体調がすぐれなくて集会を休むこと、ミスをすること、子どもたちが集会で遊ぶこと、寝ること、男女が集会で話したり、遊びにいったりすること、などです。

 神の聖霊のもとにあって、神の民は自由を得ています。それなのに、巡回監督と長老たちは、自由な決定にたいして、うるさく小言をいいつづけ、プレッシャーを与え、それがあたかも悪いことのように、言い続けてきました。

 よいことを悪いと思わせて、子どもたちや、多くの兄弟・姉妹の心に、傷をつけてきました。自分がいるべき場所ではないと思えば、そこを去っていくのは、当然の帰結ではないでしょうか。また、バプテスマを受けるときまでは、隠しておけたとしても、ずっと隠し通すことができるわけではありません。闇は少しづつ見えてきます。

 また反対に、もっともっと大きな、子どもたちに対する虐待という問題に対しては、見て見ない振りをしています。「エホバを待とう」とか「エホバが解決されるわ」とか「アメリカのことでしょ」とか「自分には関係がないわ」とか、そのように見てみぬ振りをしています。ものみの塔協会が信頼できる宗教法人では、なくなっていることにそろそろ気づきませんか。

 兄弟・姉妹たちの小さな外見上の振る舞いについては、それが悪いことのように言いながら、どうしてもっともっと大きな悪に対しては、鈍感なのでしょうか。兄弟・姉妹たち、エホバが神ではなくって、ものみの塔協会が神になってしまっていませんか。

 どうして、子どもたちの保護のための言葉を発しないのでしょうか。どうして、ものみの塔協会の外面の美しさを飾るために奉仕するのでしょうか。どうして、エホバ神と真実のために奉仕しないのでしょうか。

 自由の中にあって、許されていることを悪いということは、そろそろやめにしませんか。そして、もっともっと悪いことに対して、目をつぶることはやめにしませんか。

善は悪である,悪は善である,と言っている者たち,闇を光,光を闇としている者たち,苦いを甘いとし,甘いを苦いとしている者たちは災いだ!
(新世界訳聖書 イザヤ書5章20節)