蛇は女を誘惑し、女は欺かれ男を従わせ、男は神より女に従った

 創世記のお話は、現代の劇の象徴しているように、僕には思われます。この物語は、いくつかの要素が含まれています。

蛇は嘘をつき、女を誘惑し欺いた

 女は、蛇がついた嘘によって、欺かれています。女はといえば、完全に蛇に欺かれたのです。これは、邪悪なものたちによって、欺かれている人々に該当します。その人たちは、自分が悪を行っているという自覚がないのです。けれども、生み出している実はといえば、迫害や差別であったりします。

 「どうして悪くはないわたしたちを責めるの」といいます。「わたしたちは、宗教指導者の言葉に従って、そのとおり行っているだけ」といいます。イブが言った「蛇が欺いたので、食べました」ということに該当します。

 蛇は、自分が邪悪なもの、欺くものであることを隠していました。それゆえに、女は、罪悪感を抱くことなしに、欺かれて、悪を行いました。欺くものたちは、罪悪感を抱かせることなしに、悪を行わせようとするのです。

 口をなめらかにして、それはよいこと、それは愛あることといいます。そのようにして、罪悪感を抱かせることなしに、悪を実行させます。

女は男を従わせる

 女は欺かれたことに対しては、罪があったわけではありません。けれども、食べてはいけないと言われていた実を食べたことと、男を支配しようとしたことに関しては罪があります。神は、男と女に対して、子を産んで、地と動物たちを服従させよといいました。補い手としての役割を期待されたのであり、男を支配することではありませんでした。

 神の希望は、女が男を従わせることではなくって、男と共に、地の産物と動物たちを従わせることでした。男も女もそうですが、支配や所有の欲望が、異性に対して向けられているとするならば、それは、苦しいことです。このために、人は苦しみます。相手が自由にならないので苦しみます。

 しかし、神が望まれていたことは、男と女が共に働き、地の産物と動物たちに、支配や所有の欲望を向けることなのです。もちろん、愛ある形でです。女性は魅力的です。アダムにとって、イブが魅力的であったように。それゆえに、それは支配の手段としても使えます。ご注意あれ。

男は女に従い、神から背く

 アダムは、神が創造した魅力的な女性イブの言葉を選択しました。「これこそ肉の肉」といったときのアダムは、神への感謝に満ちていましたが、時間がたつにつれて、神への感謝は忘れ去られていったのかもしれません。

 神は自分が作ったものをみて「それは非常によかった」といわれましたが、女性や物質を魅力的に作りすぎたことに、神の間違いがあったのでしょうか。