「多くのおきて」と「ひとつのおきて」

 なぜイスラエルには、あれほど多くの、あれほど細かなおきてが与えられたのかということを、ずっと考えていました。最初に読んだときの印象は、ひどく細かなことを気にする神だなぁという印象です。また、食べてもよい動物の種類については、合理的な理由は見出せません。

 ここで考えておかなければならないことは、なぜ神は、イスラエルに「多くのおきて」を課したのかということです。それは、アダムとイブが破った「ひとつのおきて」と関係があるように思えます。

 最初おきてはひとつでした。「あなたは善悪の木の実から食べてはならない」。そして、アダムは、罪を犯しました。イスラエル人にも、おきてが与えられましたが、その数は多いものでした。またイスラエル人は、エホバに対してたえず反抗を続けます。

 ここで神の思いを文章にしてみますとこういう考えになると思います。

おきてを守らない者には、さらに多くのおきてが必要。

 最初はひとつのおきてだったのですが、イスラエル人には、多くのおきてが与えられました。そして、イエスによって、神は和解を与え、おきてを一つに戻します。そのおきては「あなたは隣人を、自分自身のように愛さねばならない」です。

 「ひとつのおきて」→「多くのおきて」→「ひとつのおきて」という流れをごらんになってください。神が人に求めておられたのは、ひとつのおきてを守ること。これがイエスが言った「軽いくびき」に該当するものです。

 「なんでも許される」のがよいのではなくって、「自分の気持ちで結んだ重くはない制約」が心地よいのです。