キリストが分裂している

 統治体は大いなるバビロンと呼んで、カトリックプロテスタントを邪悪な人たちにしているし、反対にカトリックプロテスタントは、三位一体を認めない教会を、異端と呼んで、のけ者扱いしている。

 それぞれの教会が、自分の権益のための、独自の教義を打ち出して、それに属さない人を排除し合っている。まさにキリストが分裂している。僕は最近、組織に従属しない信仰のあり方ということについて考えている。

 神と個人は、宗教団体という組織体の下に、組み入れられてしまっているように感じる。また神と個人は、国家という組織体の下に組み入れられてしまっている。

 結局、分裂がないというのは、神と個人をきちんと見るということだと思います。それぞれの個人が組織体を仰ぎ見たとたん、そこには分裂が生じてしまう。個人と組織の関係は逆転して、組織の対立のために、個人が利用されるということが生じる。

 この構造は、エホバの証人の社会で顕著に見られるけれど、別にそれがエホバの証人の社会だけで起こっているわけでもない。政治の世界だって、ビジネスの世界だって、もし裏を見ることができれば、おんなじようにどろどろだと思います。

 自分を捨ててキリストの後に従うというのは、一見するとそれは、不自由を求めているかのように思える。でも、実際は反対で、キリストのくびきというのは、人を自由にする。神と個人を愛しなさいというおきては、おきてゆえに不自由を与えるけれど、その軽さゆえに、はるかに多くの自由を得ることができる。

 キリスト教は、伝統的に、信仰と救いというものを主題に扱ってきたと思うけれど、聖書全体を読めば、それだけじゃなくって、公正と自由というものに、強く焦点があてられていることもわかる。

 神が最初にアダムに与えた言葉は「あなたはすべての木から食べてよい、しかし善悪の木からだけは食べてはならない」でした。イエスは、神のおきてが、小さなものであって、多くの自由を与えるということを理解していたのだと思います。

 ヘブライ語聖書で、イスラエルが多くの不自由をこうむったのは、その反抗のゆえ、神のおきてを踏みこえ続けたゆえでした。言葉を信じて守ることができる人にとっては、秩序を守るためには、小さなおきてで十分なのです。「あなたは隣人を愛さねばならない」。そのようにして、律法は「あなたは愛さねばならない」に集約されます。

 やっぱり、キリストの分裂を防ぐためには、多くの独自教理と神学をどんどん捨てるということを、多くの教会がやらなくっちゃならないんじゃないかと思う。