宗教特権の問題点について考察する

 今日は宗教特権の問題点について考察してみたいと思います。宗教特権というのは、ここでは、個々の立場の人間ではなくって、宗教団体に与えられている特権という意味で考えてください。

 宗教団体に与えられる自由に関しての問題提起でもあります。

憲法は信教の自由を保障しているが、それは国家が宗教団体を制約しないという意味である

 僕たちは、信教の自由について大きな誤解をしています。その言葉を聞けば、個々人が自由に信仰できる自由であろうと想像すると思います。

 けれども、本当の意味は異なります。ここでは、憲法で保障されているみっつの自由について、比較して考えてみたいと思います。

結社の自由、学問の自由、信教の自由

 憲法の目的とはいったいなんでしょうか。それは、国家の自由を制限するという目的です。

憲法の目的とは、国家の自由を制限すること

 国家という巨大な組織が自由に振舞えば、小さな組織や、個人を抑圧するということが、容易に起こりえます。

 憲法の目的は、国家という巨大な組織が、小さな組織や、個人への抑圧を防ぐことです。ここを基本に考えてください。

 そして、最初に書いたよっつの自由について考えてみましょう。

学問の自由の大きな意味は、大学の自治である

 学問の自由ときけば、僕たちは、個人が自由に学問をすることができる自由のことだと思うでしょう。けれども、最高裁判所の判断において、この自由が持つもっとも大きな意味は、大学組織の自治の自由なのです。

 学問の自由の主要な意味は、大学組織の自治が、国家によって抑圧されないということです。

 しかしいまや、大学組織というのは巨大な特権を持つ組織となってしまって、大学組織によって、個人が抑圧されているという状況ができあがってしまっています。

 つまり、憲法で保障されている大学組織の自治の自由のために、国家は国民を抑圧しないが、大学組織の自治によって、学問をしたい個人が抑圧されているという状況が生じています。

 結社の自由というのは、集団で集まって団体を作ることを、国家が制限しないという自由のことですが、この線上に、大学自組織の自治の自由があります。

 学問の自由は、大学組織の自治の自由として解されています。

信教の自由とは、宗教団体の自治の自由である

 信教の自由も、学問の自由と考え方が同じです。信教の自由と聞けば、個人が、自由に信仰を選べる自由だと思うでしょう。

 しかし実際の最高裁の判断が重視するのは、宗教団体の自治の自由なのです。宗教団体が自治を行うことを、国家が制約しないという意味の自由です。

 つまり、そこには、宗教団体が、そこに属する人々を自由に扱う自由でもあります。

 憲法の想定は、小さな宗教団体の存在を、巨大な国家が抑圧してはならないというものでしたが、今日では、大学組織にしろ、宗教組織にしろ、企業組織にしろ、とてつもなく巨大なものになり、個人の自由を制約しています。

 国家から自由を得た特権者の結託が、普通に生活する人々を、強く抑圧しています。

 今は、信教の自由は、巨大宗教団体が、そこに属する人々を自由に扱う自由へと変貌しています。強力でたくさんの広告や宣伝手法によって、普通の人々は、自分の良心に導かれて、何かを選択することが非常に難しくなっているのです。

個人や家族を、巨大組織から守るためには、心構えをしておくしかない

 世の中は公正ではなく、巨大組織が、恐竜のように、自由にかっ歩しています。学校ではこのことは教えてくれませんが、学校教育もまた、巨大組織への迎合を育てる仕組みになっているからです。

 よく勉強をして、仕組みや危険な道をしっていれば、心構えをしておくことができると思います。