何も聞き入れない人々に対してどう対処する?
聞く気持ちがある人には
イエスは、聞く気持ちのある人に対しては、こんな風にいっています。
「しかし,あなた方の目は見るゆえに,またあなた方の耳は聞くゆえに幸いです。
(マタイ 13:16)
イエスは、耳を傾ける人を褒めています。聞く言葉に対して、心を開いている人は、幸福な人なのです。
聞く気持ちがない人には
聞く気持ちがない人には、言葉を聞かせる必要はないといっています。
どこでも,人があなた方を迎え入れず,またあなた方の言葉を聴かない所では,その家またはその都市から出る際に,あなた方の足の塵を振り払いなさい。
(マタイ 10:14)
徒労に終わって疲れるよりは、聞いてくれる人を探そう
なぜ真実なのに、聞いてくれないのだろう。なぜ、見てみないふりをこの人は続けるのだろう。そういう苛立ちがあると思います。
でも、何も聞かない人は、聞かないし、自分の考えを最後まで押し通し続けることが、その人の人生ってことです。
その人は、最後に、神の前で言い開きをすることになるんです。命を失う結果になって、初めて気がつくってことです。
人の子は自分の使いたちを遣わし,彼らは,すべてつまずきのもとになるものや不法を行なっている者を自分の王国から集め出し,それを火の燃える炉の中に投げ込みます。そこで[彼らは]泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするでしょう。
(マタイ 13:41-42)
伝えることはできても、強制的に変えることはできません。でも、それでいいんじゃないかと思います。
「1914年」は、イエスが臨在し終わりの日が始まった年ではなく、何の意味も持たない年
ものみの塔協会の解釈では、1914年にイエスが臨在し、終わりの日が始まった
協会の解釈は、こんなふうです。
- 1914年に、イエスが臨在するようになった。
- 1914年に、終わりの日が始まった。
イエスの臨在とは、見えない形で、もうすでにイエスはやってきているという意味です。終わりの日の始まりとは、協会の解釈では、サタンが天から落とされた日のことです。それが、1914年に始まったといっています。
イエスの到来は、まだであり、それは将来の一度だけだ
協会は、臨在という言葉と到来という言葉を分けて使いますが、聖書では、二つの言葉は、時期については、特に使い分けられてはいません。ニュアンスが少し異なるだけです。臨在には「来てとどまる」というニュアンスがあります。
イエスは、まだ来ておらず、それは将来のある日です。
人の子は,自分の使いたちを伴って父の栄光のうちに到来することに定まっており,その時,各々にその振る舞いに応じて返報するのです。
(マタイ 16:27)
「終わりの日」とは、復活がなされる将来の日のこと
「終わりの日」とは、復活がなされる将来の日のことです。
わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わした方のご意志を行なうために天から下って来たからです。わたしにお与えになったすべてのもののうちわたしがその一つをも失わず,終わりの日にそれを復活させること,これがわたしを遣わした方のご意志なのです。というのは,子を見てそれに信仰を働かせる者がみな永遠の命を持つこと,これがわたしの父のご意志だからです。わたしはその人を終わりの日に復活させます」。
(ヨハネ 6:38-40)
イエスが語る「終わり」とは、この体制の終わりの日のことであり、イエスが到来し、裁きを行い、死んだ人を復活させる日のことです。
苦しみが終わる日は、まだ先なのです。
「自己愛性パーソナリティ障害」について知っておこう。振り回されて、苛立たされ、心を台無しにされないために。
統治体のモリスさんや、レットさんは、人格障害であり、「自己愛性パーソナリティ障害」の持ち主です。
- 人より優れていると信じている
- 権力、成功、自己の魅力について空想を巡らす
- 業績や才能を誇張する
- 絶え間ない賛美と称賛を期待する
- 自分は特別であると信じており、その信念に従って行動する
- 人の感情や感覚を認識しそこなう
- 人が自分のアイデアや計画に従うことを期待する
- 人を利用する
- 劣っていると感じた人々に高慢な態度をとる
- 嫉妬されていると思い込む
- 他人を嫉妬する
- 多くの人間関係においてトラブルが見られる
- 非現実的な目標を定める
- 容易に傷つき、拒否されたと感じる
- 脆く崩れやすい自尊心を抱えている
- 感傷的にならず、冷淡な人物であるように見える
これらの症状に加え、自己愛性パーソナリティ障害の人物は傲慢さを示し、優越性を誇示し、権力を求め続ける傾向がある。彼らは称賛を強く求めるが、他方で他者に対する共感能力は欠けている。一般にこれらの性質は、強力な劣等感および決して愛されないという感覚に対する防衛によるものと考えられている。
そして、この症状は、言葉によって感染し、ベテル奉仕者、巡回監督、長老へと降りていきます。
これは、人格障害とされていますが、実際は、障害ではなく、キリストが徹底的に批判した、パリサイ人の特徴そのものです。同情すべき点は、まったくありません。
知っておいてほしいのは、これらの人々を、変えることは絶対にできないということです。
聞く耳を持っている人たちは、語りかけることで、心を動かすことができますが、これらの人たちの心を動かすことはできません。
唯一の解決策は、離れることです。影響のない地点まで、下がることです。聞く耳を持つ人たちに協力してもらって、寄付をしないことで、身を滅ぼしてもらうのが、一番です。
「忠実で思慮深い奴隷」は、特定のグループではなく、優れた準備をしていた人々のこと
協会の忠実で思慮深い奴隷の解釈
ものみの塔協会は忠実で思慮深い奴隷という言葉を、特定のグループである統治体に当てはめます。
ものみの塔協会は、2013年に「1919年に忠実で思慮深い奴隷が任命された」という以前の解釈を修正して、統治体が、忠実で思慮深い奴隷であると解釈を変更しました。
神が統治体を忠実で思慮深い奴隷として任命しています。
統治体の指示に従うことによって、神に従うことを示すことができます。
統治体に忠節であることによって、神に忠節であることを示すことができます。
こんなふうにいうのです。
忠実で思慮深い奴隷は、キリストが語った比喩のひとつだ
ものみの塔協会は、忠実で思慮深い奴隷は、統治体だといいます。でも、それって聖書には書いてないことですよね。
忠実で思慮深い奴隷は、キリストが語った比喩のひとつにすぎません。特定のグループを指し示すものではないんです。
「主人が,時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため,彼らの上に任命した,忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。
主人が到着して,そうしているところを見るならば,その奴隷は幸いです。
あなた方に真実に言いますが,[主人]は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。
(マタイ 24:45-47)
時期について考えてみてください。これは、キリストの到来のときのお話です。将来のことです。
これは「キリストの到来に備えて、よく準備しておくように」ということを伝えるたとえ話のなかの一節なんです。
ものみの塔協会は、1914年に、すでにキリストは見えない形で到来している(臨在している)といっています。そして、統治体が、忠実で思慮深い奴隷として、任命されたのだといっているんです。キリストはもう来ていることになっています。
キリストが到来する時期は、人間が知っているようなものなのでしょうか。
その日と時刻についてはだれも知りません。天のみ使いたちも子も[知らず],ただ父だけが[知っておられます]。
(マタイ 24:36)
では、どうして協会に、その日がわかったのでしょうか。キリストの言葉を無視して、違うことを教えているからですよね。
「エホバの証人の95%くらいは滅びるんじゃないの」といってあげて
エホバの証人の兄弟・姉妹たちは、自分たちは救われると信じている。
自分たちは救われると信じて、宣教活動をしている。
自分たちは救われて、さらに多くの人を救うという気持ちで、宣教活動をしている。
この気持ちは本当なのだけれど、今自分たちの命のほうが危機にさらされているということを知らない。
今、救われなければならないのは、エホバの証人のほうだ
あなたたちはもはや、救う側ではなく、救われる側だよ
だから、お家に奉仕に来た人にいってあげて、「ネットで、エホバの証人の95%くらいは滅びるって言っている人がいましたよ」って。
「ものみの塔さん、すごく悪いことにかかわっているみたいじゃないですか。たくさんの子供たちへのレイプを隠しているみたい。だから、こんなことだと、エホバの証人のほとんどが滅びるって、その人は書いていましたよ」って。
「本部はどんどん立派になってる。でも末端の人は、どんどん貧しくなっている。それに、犯罪にも巻き込まれている」
みなさんが目指していたのは、救いのはずですよね。救われてパラダイスに入るということですよね。病気は治り、命は救われ、正しい人たちが住み、もはやそこには、涙がない。そんな世界を目指してたのに。その理想は、どこに消えてしまったんですか。
苦しんでいる子供たちを放置して、性犯罪による精神的な苦痛にも目を向けず、犯罪を行うことを見過ごし、隠す人たちに味方する。そんな状態で、エホバを待ったところで、エホバが救ってくれると、本当に思っているのですか。
このままいけば、エホバは、必ずエホバの証人の大多数を滅ぼします
エホバの証人の95%は滅びる
悪から離れるのが、一番よいよ。悪の組織には、寄付をしない。悪の組織からの特権に喜ばない。悪の組織が購入させようとするものを買わない。
不完全な組織は、公開して反省するよ。でも、悪の組織はそうじゃない。隠ぺいすることが、習慣になっているよ。そのことで、見分けられるよ。
もし悪を知りながらそれを伝えないならば、エホバに滅ぼされるのはあなただ
実際に悪があるといううわさを聞いているのに、耳をふさいで、聞いていないふりをしたら。
悪があるということを知っていながら、それを故意に無視し続けるとしたら。
悪から離れ、善を行うということをしなければ。
そのときはどうなってしまうのでしょうか。兄弟・姉妹たち、みなさんがよく知っているようにエホバは悪を憎む方です。
だから、もし、悪を(たとえば、協会の性的虐待の隠蔽)を聞いていながら、聞いていないふりをし、それを無視し続け、悪に協力しつづけるならば........。
エホバに滅ぼされるのはあなただ
エホバは、悪に加担する人を、粉々に打ち砕く
エホバは、裁き主、悪を知りながら、伝えないならば、滅びをあなたにもたらす方
兄弟・姉妹たち、みなさん方は、エホバが怖くないのですか。僕は、正直に語ると怖い。悪を行いながら、エホバの前に立つことは、怖い。
みなさんは、楽観している。こんな風に。
「組織についていけば命が与えられる」
あぁ、僕は、本当のことを伝えないといけない。皆さんを、死に至らせない道は、それとは違うのだと。聖書に書かれていることは、実際には違うことなのだと。
必要なことは....、それは....。
悪から離れていること
悪に加担しないこと
悪について警告すること
兄弟・姉妹たち。みなさんは、最低一度は、聖書を読み通したことがあると思います。その中に繰り返し書かれているメッセージです。みなさんが、知らないはずは、ありませんね。
今、組織の悪を、一生懸命になんとか伝えようとしている兄弟・姉妹が、会衆にはおられます。それは、聖書が語るとおりに、神の道を歩んでいる兄弟・姉妹です。裏切り者ではありません。しっかりと耳を傾けることに価値がある兄弟・姉妹たちです。
「悪について知らせよう、悪から離れることを知らせよう」彼らは、神の聖なる霊によって、動かされている人たちです。
今回の記事はみなさんがよくご存知のエゼキエルの言葉が元になっています。
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人の子よ,わたしはあなたをイスラエルの家に対する見張りの者とした。あなたはわたしの口から言葉を聞き,わたしから彼らに警告しなければならない。
わたしが邪悪な者に向かって,『あなたは必ず死ぬ』と言うとき,あなたが彼を生き長らえさせるために実際に彼に警告し,話し,邪悪な者をその邪悪な道から離れるよう警告しないなら,その者は邪悪な者であるので,そのとがのうちに死ぬ。
しかしわたしは彼の血の返済をあなたの手に求めるであろう。
(エゼキエル 3:17-18)
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少し難しいです。いおうとしていることは、邪悪な者の悪を知りながら、警告を怠ったならば、その人は、その責任をとって、死に至らされるということです。
エホバの証人の開拓者のみなさん、みなさんは、痛いくらいに、この聖句の意味を知っていますよね。開拓者学校、開拓者の集まり、巡回監督の助言などで、この聖句を思い起こさせられますよね。伝道をするという目的のために。
でも、この聖句は、もっと本質的な意味があります。
それは、今回書いた内容のとおりです。
もし悪を知りながらそれを伝えないならば、エホバに滅ぼされるのはあなただ
自分自身の心の問題をきちんと見つめなおそう。不幸の原因は、自分の心の中にあるよ
自分の目の前には、問題が山積みだ。そんなとき、それを、周囲のせいにしますか、それとも自分のせいにしますか。
常日頃から、愚痴をいっていると、それが習慣になってしまって、どんな問題に対しても、周囲の人や、環境のせいにしてしまう。たとえ、それが自分の問題であったにしても。
少し考えたり、探したり、質問したり、自分で行動を起こせば、解決ができる問題でも、ずっと人のせいにする。
あらゆる問題を、人のせいにする人は、無力で不幸な人だ。
自分の不幸が外からのものだと思っているけれど、あらゆる問題を、人のせいにしているから、不幸になっているということに気がつけない。
それに気がつかないで、1年も、2年も、5年も、10年も歳月を費やす。
あなたの心が、成長していないから、不幸なのに、自分がなにもしないで、周囲にばかり、成長や理想を求める。そんなことを、ずっと続ける。
そして、そのまま続けて、年齢をとってしまうと、世からは必要とされなくなってしまう。そして、もう戻れないところまで進む。
世の中では、そういう不幸が、たくさん生み出されています。
では、本当に必要なことはなんでしょうか?
それは、心が成長することではないでしょうか。
自分の心を成長させるためには、自分を見つめなおすこと。これが、大切です。
自分自身の過去と向き合うこと、自分自身の言葉や行動を見直すこと。自分自身の心を苦しくさせている原因を、よく考えてみること。
解決策は、何か。自分でできることって何か考えてみる。
必要なのは、自分自身の心のとげを、取り除こうと思う気持ちだ
僕のサイトの、一番の目的は、僕が、聖書で学んだことを、必要としている人に、伝えること。
日常的に、聖書を読むように、お勧めすること。人について理解するために、そして、神について理解するために。
そして、夫婦や、友人や、小さなグループで、聖書を通読すること。
今回の記事は、聖書のマタイ 7章3〜5節が元になっています。
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「では,なぜ兄弟の目の中にあるわらを見ながら,自分の目の中にある垂木のことを考えないのですか。また,どうして兄弟に,『あなたの目からわらを抜き取らせてください』と言えるのですか。」
「しかも,ご覧なさい,自分の目の中には垂木があるのです。偽善者よ!」
「まず自分の目から垂木を抜き取りなさい。そうすれば,兄弟の目からわらを抜き取る方法がはっきり分かるでしょう。」
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垂木っていうのは、大きな木のことなのね。わらっていうのは、とっても小さい。
この人は、ひとの目の中にあるわらについて、一生懸命になっている。でも、自分の目の中に、垂木が入っているのに気がついていないのね。
イエス・キリストは、「人の小さな問題を愚痴る前に、自分の中の大きな問題について見つめなおす必要があるよ」っていっているんだね。
自分自身の心の問題をきちんと見つめなおそう。不幸の原因は、自分の心の中にあるよ