自分を愛してくれるものを愛したからといって、いったい何の報いがあるでしょうか

 良い人とはだれでしょうか。いったいだれから見て良い人でしょうか。自分から見てでしょうか、それともエホバから見てでしょうか。

 自分と性格の合う人を、良い人だと思って、自分と性格の合わない人を感じが悪い人だと思いますか。

 自分の言うことを聞く人を、素直な人で従順な人だと思って、そうではない人は、不従順で素直でないとみなしますか。

 僕たちは無意識のうちに、自分の生活スタイルの好みに合う人を、誉めて、そうではない人を、見下す傾向があると思います。

 イエスは、そのことを見据えていたのでしょうか。こんな警告をあらかじめ、言ってくれています。

 というのは,自分を愛してくれる者を愛したからといって,あなた方に何の報いがあるでしょうか。収税人たちも同じことをしているではありませんか。また,自分の兄弟たちにだけあいさつしたからといって,どんな格別なことをしているでしょうか。諸国の人々も同じことをしているではありませんか。
(新世界訳聖書 マタイによる書5章46-47節)

 ずばっというと、自分の好みで人を判断することは、神を知らない諸国の人々と同じだということです。イエスは、自分の判断ではなく、いつでも神の義と神のご意志を優先しました。

 僕はいつも、自分自身のことを模範的だと考えるのはよそうと思っている。パリサイ人は、律法を行ってはいても、自己過信のために、イエスの言葉を受け入れることができないで、エホバの祝福を逃してしまった。

 同じように自分自身や自分たちを模範的だと考えてしまうと、聖書にある神の言葉を謙遜に受け入れることが難しくなっちゃう。

 エホバの証人の兄弟は、けっして高級ホテルのホテルマンじゃないよ。高級ホテルのホテルマンのような振る舞いや格好をほめて、そうでないなら、ちょっと違うんじゃないのというなら、僕たちは誤った判断をしてしまいます。

 悪くはない服装や髪型には幅があるということをぜひ認めてほしいと思います。好みという点において、ひとつの方向に誘導することは悪いことだと僕は思います。好みやスタイルには幅があるということを認めてほしいと思います。画一性を求めるということは、エホバへの賛美とは何の関係もないからです。