独身の賜物を受け入れることができる人は受け入れなさい

 ある国や文化圏によっては、結婚していないことは、恥ずべきことやおかしなことだとみなされる場合があります。また年齢的に結婚に遅れている女性を、馬鹿にしたりする風潮も見られることがあります。

 したくもない結婚を人から無理に勧められるとしたら、どんなに嫌なことでしょう。結婚しないでも、幸せで、十分に良いものを得ることができているという確信があるなら、結婚しないという選択は、よいものです。

 聖書では、結婚して子どもを持つことも良いことですし、結婚しないで独身で居ることもよいことです。神の民は、この点では精神的に自由なのです。結婚や独身に関する無用な偏見から自由になっています。どちらかに偏らせるような風潮からは、自由です。

 望む人は結婚するためにお付き合いをしますし、望まない人はしなくてもよいです。友と楽しむことで、またエホバとの関係で、十分に幸福を感じているのであれば、結婚する必要はありません。

 多くの人は結婚を望みますが、そうでない人は自分を恥ずかしいと思う必要はないです。イエスはこんな風に言います。

「すべての人がそのことばを受け入れるわけではなく,ただその賜物を持つ人たちだけ[がそうします]。母の胎からそのように生まれついた閹人があり,人によって閹人にされた閹人があり,天の王国のゆえに自らを閹人とした閹人がいるのです。それを受け入れることのできる人は,受け入れなさい」。
(新世界訳聖書 マタイによる書19章11-12節)

 その賜物と書かれているのは、独身の賜物のことです。生まれつきその賜物を持つ人もいますし、神の王国のために、自分を独身にする人もいるといっています。イエス自身も独身でした。

 だから結婚をしたければそれを求めるのは恥ずかしいことではないし、結婚を望まないならば、結婚をしないことは恥ずかしいことではないです。そのどちらの選択においても、だれからも責められることはありません。

 自由の民らしくあって、それぞれの決定を尊重します。結婚をしたい人に、独身を勧めたりはしません。恋愛をしたい人に、それをとどめさせたりはしません。また子どもがほしい人に、それをとどめさせたりはしません。独身でいたい人に、結婚していないと恥ずかしいと思わせたりしません。

 僕たちは真理によって、文化的な偏見からは自由にされています。それで、独身でいることや、結婚していること、子どもを持っていることで、自分を責める必要はないのです。