聖書研究 「神を見ると死んでしまう」ということについて考える

 聖書を読むと、聖書中の預言者イスラエル人は、神を実際に見ると死んでしまうと考えているようです。いくつかの記述を見てみましょう。

ゆえにヤコブはその場所の名をペニエルと呼んだ。彼の言うところでは,「顔と顔を合わせて神を見たのに,わたしの魂は救い出された」からであった。
(創世記 32:30)

 ヤコブは、神と組み打ちをします。人間の姿をしているみ使いでしたが、神そのものの出現と考えてもよいと思います。組み打ちをした後に、ヤコブは「神の顔を見たのに、生きている」という感想をもらしています。

 次にモーセの例も見てみましょう。神の山、ホレブでの出来事です。

その時モーセは自分の顔を覆い隠した。[まことの]神を見ることを恐れたためである。
(出エジプト記 3:6)

 エホバ神はホレブの山に降りてきていましたが、それを知ったモーセは、自分の顔を覆い隠しました。これは、神を直接見れば、死ぬという観念があったのでしょう。

 けれども、エホバはモーセとだけは、顔を合わせて話すようにします。モーセは死にません。

そしてエホバは,人がその仲間に話しかけるように,顔と顔を向かい合わせてモーセに話された。
(出エジプト記 33:11)

 しかしまたその後には、エホバはモーセにこういいます。

また,加えてこう言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見てなお生きていることはできないからである」。
(出エジプト記 33:20)

顔を見るということの比ゆ的な意味

 顔を見るということの比ゆ的な意味は、僕は次のように考えます。それは「とても近くに近づく」という意味です。エホバ神に近づきすぎると死んでしまうという意味と考えます。どうしてでしょうか。それは、人間の持つ罪と関係しています。

 罪を持つ人類は、聖なる方エホバに、生きたまま近づくことができません。罪と清さは、分かち合うことができないのです。

あなた方は自分を神聖なものとし,聖なる者とならなければならない。わたしは聖なる者だからである。
(レビ記 11:44)

 しかし人は罪を負っています。この罪は、律法によって完全に取り除くことができないのです。それで、神は、イエス・キリストの血によって、民を聖なる者とみなすことにされました。これが、神の愛です。

イエス・キリストの血を通して、清いと宣言され、神に近づくことができる

 イエス・キリストの血が、僕たちを、罪から清めます。

み子イエスの血がわたしたちをすべての罪から清めるのです。
(ヨハネ第一 1:7)

 それにゆえに、はばかりのない言葉を持って、僕たちは、神に近づくことができます。

それゆえ,時にかなった助けとして憐れみを得,また過分のご親切を見いだすために,はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づこうではありませんか。
(ヘブライ 4:16)

 そして再び神とともに住むもの、神の子とエホバ神はみなしてくださいます。

そして彼らは,『あなた方はわたしの民ではない』と言われたその場所で,『生ける神の子ら』と呼ばれるであろう」。
(ローマ 9:26)

 罪によって神から疎外されていた人類は、イエス・キリストのあがないの犠牲による血をもって、再び神に近づくことができるようになりました。これが、聖書に流れるテーマのひとつでもあります。