汚物のように人を扱う人が、実際汚物のように扱われる

 神の愛は忠節な愛です。忠節な愛というのは、裏切らない愛です。「あたなはわたしを愛した、それゆえに、わたしはあなたを愛そう」という神からの愛です。

 人の愛はいつもすれ違うのです。「わたしはあなたをこんなに愛したのに、あなたはいなくなってしまった」「あなたのためを思ってやったのに、あなたは応えてくれなかった。」

 神はひそかな行為を見ておられます。神は、ひそかな善行を見ておられます。だれひとり、あなたのことをしらなくとも、その善行は、神が見てくださっている。それで神は「あなたは小さなものに愛を示した、それは、わたしへの愛だ、それゆえ、わたしもあなたに愛を示す」といいます。

 しかし、神はまた恐ろしい方でもあります。裁く方、ゲヘナに投げ入れる方です。「目には目を、歯には歯を」といわれる方です。もちろんこれは、人に対してやり返せという意味ではなくって、神に対して、罪を犯せば、罰で返ってくるという意味です。

 現在、エホバの証人の社会では非常に悪い習慣があります。それは、人を汚物のように扱うという習慣です。排斥された人は、会衆から見て汚物だと教えています。会衆の中で意見を言う人は、会衆の衛生を汚す人というレッテルが張られます。

 また会衆ないで、特定の人を無視して、その人を会衆の中で、汚いもののように扱うという習慣もあります。長老は、本来であれば、そのようなことを止める立場であるのに、巡回監督と長老は、自分から率先して、こういう見せしめのような行為を行っています。もちろん、裏側にいるのは、ものみの塔協会です。

 でも、僕は、兄弟・姉妹たちにいいますが、排斥された人を汚物のように扱っているあなたがたが、裁きのときには、エホバから汚物とみなされるということです。

 「あなたがたは、弱くて小さい者たちを汚物のように扱った、そして、それが愛ある行為だといっている、それならば、私もあなたに愛を示す、汚物のように扱われなさい」。エホバは、裁きのときにこのようにいうのです。

 僕が裁くのではないのです。自分が語った言葉や行い、それによって、裁かれるのです。ですから、どうか神への恐れを持ってください。

 排斥された人を汚物のように扱うことによって、汚物への道を歩んでいきますか。それとも、愛と命の道を歩んでいきたいですか。気づいていなかったのでしたら、その点については責めたりはしません、けれども、話を聞いて気がついたなら、どうか、過ちから立ち返ってください。

 どうか耳を傾けてください。